バロック時代は一般に1600年前後からバッハの亡くなった1750年までとされることが多いです。
バロックの巨匠といえばバッハとヘンデルが挙げられますが、その他にも、リュリ、ヴィヴァルディなど、数々の作曲家が活躍しました。
また、バロック時代はオペラの黄金時代ともいわれ、オペラが確立され、数多くのオペラ曲が作られた時代でもあります。
時代背景
絶対王政
バロック時代は絶対王政の時代とほぼ一致しています。
絶対王政とは、国王の権力が絶大で、絶対的な国王による強力な支配体制を意味します。
そんな体制の中、この頃の王侯貴族たちは富を浪費することが絶対的王権の証しであり、自分の富と権威を誇示するために競って巨大な宮殿を建てました。
その象徴といえるのが1682年にフランス王ルイ14世によって建てられたヴェルサイユ宮殿です。
絢爛豪華な宮殿では、毎日のように贅沢で華やかな舞踏会、晩餐会、バレエ、オペラなどが開かれました。
しかしそれは贅沢という域を超えて、国の財政を圧迫するほどの富を祝典に費やす、そんな刹那的な浪費が連日行われていたといいます。
バロックでは、そうした時代背景を表すかのように、ギラギラとした英雄的でドラマチックな趣向が好まれました。
ちなみにバロックという言葉はもともと「歪んだ真珠」という意味で、これは以前のルネサンスの調和した美と比べてこの時代の美術の趣味の悪さを揶揄した表現だそうです。
モンテヴェルディの最高傑作といわれる『ポッペアの戴冠』では、そんなバロック時代を物語るドラマチックな愛憎劇が描かれています。
バロックでは、祝典のためのBGM的な音楽が大量に作られ、特に、リュリ、ヴィヴァルディ、ヘンデルなどはそのような曲を数多く作っています。
そんなバロック時代のドラマチックな音楽の最高峰として、次のような作品が挙げられます。
・ヘンデル『メサイア』(1741年)
・ヘンデル『マカベウスのユダ』(1746年)
・バッハ『マタイ受難曲』(1729年)
宗教革命
宗教改革とは、16世紀のキリスト教世界における教会体制上の革新運動です。
ドイツの神学者であるルターの贖宥状への批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教会の世俗化、聖職者の堕落などが信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教(プロテスタント)の分離へと発展しました。
この宗教的な対立から、「カトリック文化圏」と「プロテスタント文化圏」という異なった価値観を持つ対照的な文化圏が生まれます。
代表的なカトリック国家といえば、スペイン、フランス、イタリア、オーストリア(およびドイツ南部)で、こうした国々ではきらびやかな宮廷文化が栄えました。
それに対し、オランダやドイツ北東部はプロテスタントの本拠地ともいえる場所で、それを支えていたのは主に市民(商人)階級であり、そうした人々は信心深く勤勉で倹約家でした。
そんな対照的な性格の違いから、どちらかというと派手好みなカトリック文化に対し、プロテスタント文化は虚飾を嫌い、控えめで内面的なものを求める傾向が強かったようです。
音楽の基本的ルールの確立
この時代になると、以前の中世・ルネサンス時代にはなかった音楽の秩序、規則性のようなものが徐々に確立されていきます。
これらの基本的ルールというのは、現代の私たちにとってはいわば当たり前ともいえるものですが、そんな音楽の基礎的なものがこの時代に確立されていきました。
特に響きやリズムについては現代の私たちの感覚に急速に近づいたといえます。
例えば、中世の頃には和音といえば「ドソ」の二音がよく使われていたそうですが、それがルネサンスの頃になると「ドソ」に「ミ」を加えた三音が少しずつ用いられるようになり、バロックになると曲は例外なくきちんと「ドミソ」の三和音で終わるようになりました。
そして、明るい調子の「長調」と暗い調子の「短調」とに音楽が二分されるようになるのもバロック以後のことです。
また、リズムに関しても強弱の拍子をつけるようになったのもこの頃でした。
私たちからすると拍子のない音楽の方が珍しいくらいですが、この頃では曲に強弱のアクセントをつけた音楽というのは驚きであり、とても斬新だったことでしょう。
このように、私たちになじみのある作曲家が誕生し、名曲が生まれ、なじみのジャンル、三和音、長調/短調の区別、拍子感といった、私たちにとっては当たり前のさまざまな音楽の基本ルールが確立されたのがバロック時代です。
すなわち、バロック時代とは音楽がクラシックになりはじめた時代、いわゆる神に捧げる宗教音楽が近代音楽へと大きく近づいた節目の時代ともいえます。
オペラの繁栄
この時代の宮廷では、ありとあらゆる場面で音楽が奏でられていました。
こうした王侯生活を彩るバロック音楽の頂点がオペラです。
オペラはもともと古代ギリシャ悲劇を復元しようとするフィレンツェの好事家たちの試みとして生まれたものでしたが、このジャンルを不動のものとして確立したのはバロック時代でした。
バロック時代全体を通して、ヨーロッパ中で無数のオペラが作られます。
実は、現代のオペラ劇場のレパートリーの大半はモーツァルト以後のものであるそうですが、このバロック時代こそ、もっとも大量にオペラが作られた黄金時代であり、バロックとオペラはほとんど同義だといっても過言ではないといえます。
その中でも、ルイ14世の宮廷楽長および寵臣であったイタリア・フィレンツェ出身のジャン=バティスト・リュリ(1632~87)は王を讃えるバレエやオペラをたくさん作りました。
リュリは「抒情悲劇」と呼ばれるフランス・オペラを確立し、それは「フランス風序曲」と呼ばれ、バッハやヘンデルら、バロックのすべての作曲家のお手本となりました。
ちなみに、先ほど「バロック」という言葉の意味は「歪んだ真珠」といいましたが、リュリが活躍したフランスでは、そんな「バロック」という言葉を嫌い、「バロック時代」を「フランス古典派時代」と呼ぶのだそうです。
バッハの出現とドイツの隆盛
絢爛豪華な芸術作品が次々とフランスで生み出されていた頃、ドイツは宗教改革の動乱や三十年戦争の荒廃から復興し始めていました。
そんなドイツで、1685年、バッハとヘンデルが誕生します。
イタリアやフランスに後れをとっていたドイツの音楽も彼らの活躍とともに18世紀前半頃から盛んになっていきます。
しかし、この二人の活躍の場は大きく異なりました。
同じドイツに生まれた二人でしたが、バッハの活動はもっぱらドイツ北東部に限定されていたのに対し、ヘンデルは名誉革命後、時代の最先端をいくロンドンで大いに活躍しました。
バッハの活動は、バロックのイメージとは対照的に、いたって地味だったといわれます。
多くの作曲家が華やかなカトリック文化圏で活動していたのに対し、バッハはプロテスタント文化圏であるドイツを活動拠点とし、生涯その拠点を移すことはなかったそうです。
バロック時代というと、一見、きらびやかな王侯貴族の音楽文化というイメージで、確かにそれも事実なのですが、政治的には時代の潮流に乗り遅れ、音楽史的にはまだまだ後発国だったドイツから、のちに「音楽の父」とも称えられるこの時代でもっとも偉大なバッハという作曲家が現れたことによって、バロック時代が単純にとらえることのできない時代となっているのかもしれません。
しかし、バッハが同時代のフランスやイタリアの華やかな音楽にリアルタイムで触れていたことは間違いないことですし、その影響も当然受けていたわけですから、バッハにバロックの要素が皆無かといえば、そうではありません。
いずれにしても、そんなバロックだからこそ、多くの人々が興味を抱き、一筋縄ではとらえることのできない面白さも感じられるのでしょう。